お釈迦様の慈悲とキリスト様の愛
今使われている「慈悲」そして「愛」Loveの本当の意味とは?
お釈迦さまの言いたかった事
キリスト様の言いたかった事
根幹に流れる本当の宇宙の愛の在り方

お釈迦さまは、言わずと知れた仏教を開かれた方、如来さまに生きながらにして成られた方です。
紀元前5,6世紀頃、今のインドとネパールの国境付近、王子様として生まれ何の不自由もない生活を送っていたのに、出家してしまいやがて悟りを開かれ、釈迦牟尼仏陀・・・お釈迦様として、現在日本でも親しまれている神さまのお一人です。
神さま的に、言わせて頂くと、仏教では大日如来とか毘盧遮那仏という神さま、日本で言えばアマノミナカヌシさま、世界での他の呼び名としては創造主だとかヤファエ、アッラー。そう呼ばれる宇宙の根源の神さまの分身として、地球に送られた神さまのお一人です。
ユダヤ教のアブラハム、キリスト教のイエスキリスト(ナザレのイエス)、イスラム教のムハンマド、仏教の釈迦牟尼仏陀(お釈迦さま)・・・ここでは世界の四大宗教をあげましたが、それぞれが、その国その地域に必要な人々への教えを説くために地球に送られた神であり、宇宙の根源=大我の分身であるといえるでしょう。
神(=宇宙・大我)の教えは、本来人間が愛と感謝の修行をする為のもの、そしていかに人が幸せになれるかという事を説かれたものです。なので、本質は全て一つのものです。お釈迦さまが対機説法といって、その人その人に必要な教えを説いたように、その土地でその時代に必要な教えが説かれたという事です。
それが、時には後世の為政者(国を治める人々)に利用されるようになったりして、少しづつ教えがねじ曲げられ、現代につながっているという訳です。
地球は一つ、それを生み出した宇宙も一つ、宇宙の根源から人間は誕生させられたという事実、そしてその本来の目的は人間がどうすれば幸せになれるかという事に尽きます。
私の、信念?信仰?は若い頃から、全ての教えは一つのはずという思いから変わっていません。疑問を持った私は、一通りほとんどの宗教の教えは読み漁りました。その結果、そこに説かれている事、その本質はみな一緒だと確信しました。
言い方が違うだけ、そんな所です。
ただ。仏門に入ったので他の宗教より、仏教に多少詳しい・・・さらに現代の全ての人々に生かせる教えがここにはある事を感じ、お釈迦さまの教えをここに引用させて頂きます。
つい先日の事ですが、私は仏教徒なんだよね?と聞かれて、違うよと答えたのもそこにあります。勿論お釈迦さまの教えは尊いものです。
しかし、それだけに執れるのは、釈尊の説く執着から離れられない、苦を招く原因を自ら歩むようなものです。
今、世界は昔に比べると小さくなったと言えます。その気になれば、地球の裏側に行くのに一日もあれば充分な時代です。(辺境の地は別ですが)
国境というどうしようもないもの、これも人間が作っただけです。本来地球は地球という国で良いはずなのです。
宗教も宗教と呼ぶからいけない。信仰と呼ぶからいけないと私は思っています。
私達が聴かなければいけないのは、宇宙というカミの人類に投げられる言葉です。
今、人類が本当の宇宙の原理原則に目覚め、大我という宇宙の意識によってのみ事を成すべき時なのです。そこには争い、戦争など起こるはずがない神の意識があります。それを人間が見て見ないふりをしている・・・又は完全に忘れてしまっているのかもしれません。
全ての人々が大我で生きていく事が必要な時代になっている事に目覚めて欲しいと願いながら先を続けたいと思います。
・大我と小我
ここでどうしても避けて通れないが大我(宇宙=神の意識)に生きる自分になってくるのですが、大我と突然言われても分からない方の方が多いかもしれません。
この意味をスピリチュアリストの江原啓之さんが分かり易く説明されているのでここに引用します。
《「大我」とは、個人の狭い立場を離れた、自由自在な心のあり方を指します。
宇宙の真理や、神の意志のことだと考えてください。
「小我」とは、個人的な欲望にとらわれた心のあり方です。
自分を中心にした利己的、物質的な考え方を指します。》
・・・と分かり易く説明されていますが、まだまだ分かりずらいかもしれません。
では、分かり易くするために、どこにでも居そうな人の例をあげます。
自分が生きるのが精いっぱいなので、他人の事なんて…という人が居たとします。
その人は、一生懸命こつこつと働いて生きています。でも心の中は、人の事を考える余裕もない、ギリギリの生活を強いられています。自分はこんなに頑張っているのに、幸せにどうしてなれないのかと、不満で一杯の毎日を過ごしています。パチンコや競馬に行くときだけは、今日はついているだの、今日は運がないだの・・・あそこの神社に行ったから運が上がったとか、反対に負けた時はどうせ自分は運がないんだと、やけくそになってみたり。
・・・これは、一人の例ですが、そんな人居ますよね。これが小我に生きる人の典型例です。でも、この人も精一杯生きているのです。自分の事は自分でどうにかしなくちゃいけない。人様にだけは迷惑をかけちゃいけない。精一杯生きているのにどうしてだか運がついてこないのです。
私の周りにもそんな人が居た事があります。私と居るとパチンコが当たるとか?株で勝てたとか?
でも、それって、本当に運のある人生が歩めいるわけではないのです。
なぜなら、小我に生きているからです。自分の欲望の中に生きていて、自分が良ければという思いが強い。パワースポット巡りも流行っていますが自分が幸せになりたいだけでは、上手くいかないのです。それが宇宙の真理でもある所です。
勿論一番初めに幸せにならなければいけないのは、自分です。
それがなければ人の幸せなんて本当に考える事ができるようにはならないからです。
他人にも自分の我欲を離れた愛の心を持ち、本来カミである自分の魂を生かすべく行動し観音様の別名、観自在菩薩(物事を観る事に自在、自由な心)の心で、カミ(佛)の智慧で生きていく。
これが、大我を生きる人間の在り方です。
それは宇宙の真理=意思でもあるので物事も上手く運び、それを実行する事で益々幸せになっていける事になります。
・キリストさまの愛
キリスト教の根幹にあるのが「愛」といわれ、仏教ではそれに対して「慈悲」という言葉が基本だと言われています。
元々原語で「愛」と訳される言葉は次の4つがあげられています
エロース 性愛の事
フィリア 兄弟愛 友情愛
ストルゲー 家族愛
アガペー (日本語に訳せない・・・強いて言えば)無条件の愛⇒これがキリストの愛とされる
またキリスト教が日本に伝わった時には、それに相当するような言葉が無く「お大事に」と使われていたそうです。
よく、英語で自分の好物とか気に入ったものがあると、I love it.などとか、簡単にも使われる事があるLOVEです。勿論 あなたを愛していると言えば I love you.です。
この「愛」LOVEですが、キリストの伝える愛、その教えを広めるのに、その頃LOVEに該当するような言葉が英語圏に無く、愛とはこういうものだよと、造語として作られたのがLOVEです。
それは
L・・・listen よく聴く、傾聴してあげる。心に寄り添って自分も心から聴いてあげる。
O・・・Over Look 全体をよく見てあげる。長い目で、相手の背景や未来も見てあげるという事
V・・・Voice 声をかけてあげる。思いやりを持って声をかけてあげる事。
E・・・Excuse 許してあげる。それと共に恩赦の赦・・・赦す事で、元々罪はないという意味でもある
「愛」LOVEとは、こういう意味で作られた言葉なのです。キリスト様が皆に対して行った事。救うべき人達に対して、一人一人に言葉をかけ、その行為「愛」LOVEを行ったという事です。
本来の愛のある行動とは、この全てが成されて完成します。
世の中で愛というと、愛していたのに裏切られることに腹が立つ人もいるでしょう。こんな事もしてあげた、あんな事もしてあげた、それなのにそんな仕返しをするなんて…というような感情・・・これらは愛ではないと言えます。神の前に全ては許されるという意味で告解というものが行われますが、勿論その人が、許されるということは、魂のマイナスエネルギーを浄化する・・・神に許される事が安寧をもたらす大事な事です。
ただ、人を愛するという事は、その人の全てを許容する、許す・赦すという事でもあるのです。
簡単に許すという言葉を使っているようですが、人間が全ての人を出来事を許すというのは、本当に大変な事だと思います。でも、「愛」LOVEとは許す事が不可欠なのです。それは勿論自分を許す事にもつながっています。
本当の愛の実践は、世の中で使われている愛で気持ちがハッピーで盛り上がっているようなものとは、意味が全く違うのがお判りでしょう。
しかし、あなたが宇宙=神のエネルギーを感じられるようになったら、それが、「愛」「慈愛」としてしか表現できないようなすごいものに気付けることになるかもしれません。
是非、「愛」LOVEという言葉の奥深さを改めてみて下さい
・仏教の「慈悲」⇒苦を抜いて楽を与える
「慈悲」の本当の意味をご存知の方は少ないと思います。これだけいっぱいのお寺があって、お釈迦様を知らない人の方が少ない日本ですが、何故だかその大切な教えの基本でもある「慈悲」が間違えて捉えられている方が非常に多いです。英語にするとmercyですがこれも日本で使われている意味と変わらないようです。
では、本当の意味とはどんなものなのでしょうか?
慈悲の「慈」とは衆生をいつくしみ、楽を与える事です。
そして慈悲の「悲」とは衆生をあわれんで、喜びを与え、苦しみを除く事です。
つまり慈悲の本来の意味は「抜苦与楽」・・・苦を抜いて楽を与える・・・という事なのです。
(原語は「慈」はmaitrī、「悲」はkaruṇā の漢訳)
お釈迦さまのいらっしゃった当時のインドでは「愛」(トリシュナー)というのが煩悩とか貪欲に繋がる言葉で、また「性愛」(カーマ)という言葉しかなかったので、愛と言う言葉は漢訳される時使われませんでした。
また、「慈悲」の「悲」は、日本語にすると悲しいという意味があるので「衆生を憐れんで悲しんでいらっしゃる」みたいに捉えられている人も居るかもしれません。(確かに今の世の中を見たら悲しんでいらっしゃるのはまちがいないかもしれませんが)
このように多くの人が、本当の意味を知らないのが仏教の根幹にある「慈悲の教え」です。
よく物を考える時には、その文字をみて考えろと言われますが、この慈悲に関してはそれが間違って伝わってしまう・・・そんな言葉です
「お代官さま、お慈悲を!」などと使われているのが一般的な日本人の持っている慈悲の概念で、言い換えるとお恵みを持って許してください、お助け下さい、みたいに本来の意味とはかけ離れた意味になってしまっています。
そんな事もあって、仏教というと陰気くさいと思われている方もいらっしゃるでしょう。
それに日本人のほとんどが、仏教と関わるのはお葬式とお墓参りだけというのもその原因の一つです
(日本語にするには意味からすると慈愛の方がその意味に近いと思ってます。)
また、日本は、南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土に行ける、如来さまが救って下さる・・・という教えが広まった国でもあります。
勿論、戦乱の世も長く、貧しくてどうしようもない、飢えに苦しむ日々、そんな中あの世にしか希望が持てない人々には救いであったに違いありません。
しかし、本来のお釈迦様の説いた教えは、今生きている人がどうしたら幸せになれるかという教えです。
お釈迦様の教えは、慈悲・・・前述のように「抜苦与楽」が基本です。
いかにして、この世の人の苦を抜く・・・取り除く事ができるか?そして本当の安楽を得る為にはどうしたら良いかというのが基本です。ちなみに、この安楽とは、ただ自分にとって良い事のような意味ではなく、佛の悟りにも近いような幸福感を表す安楽だともいえます。
でも、私達一般人が、佛の悟りというものを考えるのはおこがましい事かもしれません。ただひたすらに、安心できる、恐怖というものがない幸せな心持ちというのが、この安楽な状態だと言って良いかもしれません。
そして、よく「佛の智慧」というものが大事だと教えられますが、これも人間の持つ知恵、知識とは違い、宇宙の真理=法が持っている智慧 それによって考え行動する元となるものになります。それが前述した大我で生きるという事です。
・「苦」を離れるには
お釈迦さまは、王子として恵まれた生活を捨て29歳で出家し、35歳で悟りを得、仏となられました。80歳で入滅されるまで、45年にわたりインド各地を布教されて周られましたが、その教えは人間が安楽を生きる為に、どうしたら「苦」が取り除けるかという事に尽きます。
出家されたのも、人間にはどうしても離れられない「生老病死」という苦しみが存在する。それから抜け出す方法はないものかという事からでした。
「生老病死」という免れられない苦は当然の事、それ以外にも生きている限り、人間には苦しみが尽きません。
それを、離れるにはどうしたら良いかという、宇宙の真理を説かれ続けられたのです。
・「執着」が「苦」を生む
一番の原因は「執着」…何かに対する執われた心であります。
人間は、とかく何かを決めつけたがる性質を持っています。「自分には無理」「それって(自分の)常識では・・・違う」など、実は本当にそれが正しいのかどうか分からないものにも及んでいたりします。
それは人生の経験から(過去世を含む)何かに対しての、防衛本能である事も多いものです。
過去世で人に殺されたとしたら、その恐怖から身を護る為、そして殺されないようにという防衛本能から、人と争うと怖い!ので、自分は何もしないで周りに合わせていた方が良いという決めつけを行ったりします。その結果、自分は誰にも逆らわないように、自分を押し殺して生きていく事に執着したりもします。
また、騙されたという経験(過去世も含めて)から、絶対に人は信じないという決めつけを行ったりします。
また、虐待にあったという経験から、自分は生きている意味がない、居ても居なくても良い存在だと決めつけてしまったりします。
これらは、一例ですが、そういった自己否定をしてしまうような決めつけを多くの人がしています。
・・・これらは、無意識(潜在意識)がそうさせているので、本人は気が付いてない事が多いです。
そうした記憶が悪い因縁(私の言葉では「魂の傷」)となり、苦しみを生む原因となっているのです。
・「天上天下唯我独尊」
お釈迦さまの教えに{唯我独尊}というものがありますが、全ての人は一人一人この世にただ1人しか居ない尊い存在です。
それをまず知る事、また、人間は一人一人カミであるという事も覚えていて欲しい事です。
人間は、生まれながらにして尊い存在なのに、何故だか自己否定を「魂の傷」・・・悪い因縁がさせ勝ちです。
この苦しみの元である「悪い因縁」・・・魂の傷を癒し、自分の魂からマイナスエネルギーを取り除き全てプラスエネルギーの魂にしてあげる事、全てを「良い因縁」にしてあげる事が必要なのです。
また、釈尊は「中道」という事も大事にされています。これは死ぬぎりぎりまで苦行を重ねた結果、なんの意味もなかった・・・そう思っていたお釈迦様が、琴の糸は張りすぎると切れてしまう、緩すぎては良い音がでない。何事もちょうどいい所「中道」があると悟られその後瞑想に入り、悟った人=仏陀=如来さまとなられた事に由来しています。
また、法=宇宙の真理に乗っ取った上で自由自在の心の状態が大切である事も説かれています。
これは観音様のお名前の由来でもある観自在菩薩・・・観る事に自在である事・・・それによって執着を離れ、佛の智慧によってもたらされる心、「慈悲」をもって行動を実行しなさいという事でもあります。
そういう道「菩薩道」を歩む事に因って、安楽という仏の心・・・宇宙の根源である慈愛に満たされた安楽の境地に達する事ができるということです。
そして最終的には、「輪廻転生」という苦から離れた如来の境地に達する事が生を生きる私達の目的でもあるとされている訳です。
お釈迦さまの教えをしっかり勉強しようとすると、沢山の難しい言葉が出てきてそれだけで「難しい教え」と思われてしまう方も多いと思います。
でも、本当はとてもシンプルな事、人がいかに苦しみの根本原因から離れて生きる事で、安楽の世を生きる…そのための教えなのです。
苦しみの元は、あなたという宇宙の中にあります。
周りのせいだと思っているかもしれませんが、「思考は現実化する」というようにあなたの魂が引寄せているのが、今の現実かもしれません。
お釈迦様の教え、まず苦を抜く事(「魂の傷」を癒す)から始めましょう。
※補足 「慈悲の語源」
仏や菩薩が、人々のことを思い楽しみを与えることをマントリーmaitriと言います。その翻訳としては中国語では「慈」の字を当てました。そして、人の苦しみを取り除くことカルナkaruṇā「悲」の字を用い、それらをあわせて「慈悲」と訳されました。
慈悲の原語として使われるプレマンpreman, スネバsnehaは、他人に対する、隔てのない愛情を表します。
この慈悲というものは、一切の生きとし生けるものに対してもその心を持つようにと説かれています。私が仏教に目覚めたきっかけでもある初期仏教の経典でもある【スッタニバータ・蛇の章】から一部引用します。慈悲とは慈悲の導く安楽とはどういうものなのか。是非この機会にお釈迦様の教えの真髄に触れてみて頂けたらとおもいます。
【スッタニバータ・蛇の章】
智慧ある人たちが批判するようなことは、いかなることも為さないように。
安楽がありますように、無事息災でありますように、すべての生けるもの(有情)に無上の慈しみを抱け
生きているものすべてに対して、動きまわるものでも、動きまわらないものでも、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、とても小さいものでも、巨大なものでも、
見たことがあるものも、見たことがないものも、遠くに住むものも、近くに住むものも、すでに生まれたものも、〔今にも〕生まれようとしているものも、すべての生きとし生けるものに対して、慈しみの心を抱け
他人を欺いてはならない。どこにいようと、だれであろうとも、他人を軽んじてはならない。互いに、憤り、怒りの想いから、他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母がたったひとりのわが子を、命がけで守るように、すべての生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を抱け。
全ての生命に対して、無量の慈しみの心を作るように。上にも、下にも、また横にも、隔てなく怨みなく敵意なき心を育てよ。
立っているときも、歩いているときも、坐っているときも、横になっている時でも、眠らないでいる限りは、この〔慈しみの〕心をと保て。 この状態は、「いまここの(この世における)梵天の境地」と呼ばれる。